Raptブログに出会ってからまだ半年も経っていない者ですが、たった数ヶ月の期間でも、今まで40年強生きてきた中で、誰も教えてくれなかった息苦しさの理由を知ることができました。

無宗教家庭に育って、高校は英語教育に力を入れていると言われる学校に入り、プロテスタント系の短大に行ったにも関わらず、聖書に興味を持って自主的に読むことがないだけでなく、聖書の授業では60点と、その授業をパスするのにギリギリの点数といった、とても恥ずかしいレベルでした。

そんな私がRaptブログに出会ってからその御言葉から気づかされたことは、過去に起きた苦しい出来事の数々は、全て神様を信じることで得られる悟りを知るための艱難であったということがわかりました。

その艱難の一つは、母が白血病だと言われて、何度と長期に渡る抗癌剤治療をして、亡くなるまでの間3年半。

なぜ、母のように何も悪を行っていない人が、一昔前まで難病と言われていたような恐ろしい病に見舞われてしまったのか。

ずっと理解できずに辛い思いをしました。

ですが、誰しもこのような艱難が自分や家族の身に起こらない限り、人生についてどう生きるべきかを考えるという、一見当たり前のように思われることを見過ごしたまま、日々の生活に追われてしまいます。

そしてある日突然、艱難に見舞われては、「神様がいたらこんな災難は起こらないはず。神様なんていない。」

そうやってそこから何も悟ることも学ぶこともなく、だから答えも得られず、ただどこにもやれない気持ちに蓋をしてしまいます。

もしくは、衝動にかられたように神社仏閣に行って願かけをしては、「神様にお願いしたから大丈夫」と、他人任せにして何かをやった気になってしまったりもします。

私の母が入院した時も、そうでした。

無宗教の家庭だったにも関わらず、母が入院した時に家族が真っ先に行こうと行った先が神社でした。

私的にはそれがとても不思議でしたし、ある意味、都合よく災難が起きた時だけ神頼みをするなんて、返って罰当たりな感じすらしました。

当時の私は神様の存在をよく理解していませんでしたが、神社には神様はいないような気がしていました(実際、悪魔崇拝の場であったとは…)。

それに神社に行く時間があったら、気落ちしているだろう母の病室に顔を出す方が先にすべきことではないか、とも思いました。

こういう時に、人間が取る行動の背景には、普段から蓄積されてきた受け身の情報が垣間見られるものだ、ということも分かりました。

「お医者様の言うことを聞けばよくなると信じて」「芸能人にも同じ治療をする」これらの言葉は、家族にある種の安堵感を与えたようでした。

しかし、私はインターネットで毎晩夜な夜なありとあらゆるものを読み漁っていたので、母の病院生活の中で観察したことと読み漁ったことの間には、腑に落ちないことばかり。

とは言え、入院しているのは私自身ではないので、勝手にこうしたい、こう思うなどと言うことすら無意味な状態、むしろ、家族と対立するだけでした。

家族には理解してもらえないやり切れない思いを、病院に通う道中空を見上げながら、一人心の中で気持ちを吐き出し、頭の中を整理しようとしていました。

この時にはまだ神様の存在を確信してはいませんでしたが、Raptブログに出会って御言葉を聞くようになってから、あの時も、神様が私が悟りを得られるように見守っていてくれたのではないかと思います。

母が入院するようなことがなければ、真剣に情報収集をしたりすることもなかったでしょうし、家族と自分のもつ感覚がここまで違うことにも気づかないままだったと思います。

また、母が入院してしまったことと家族との葛藤があまりにも辛くて、家族以外の昔からの友人に話をしてみても気分が晴れることはもちろんなく、本当に神様のような存在以外、私の悩みに対して答えをくれる人はいないのではないかと、神様の存在について考えるようになりました。

空に向かって自分の中に抱えている葛藤を考えている時だけが、母親の治療のことを考えて出てくる不安や、家族との意見の相違についてイライラするといった負の感情から解放されました。

とは言え、急に神様の存在をどう理解したらいいのかも分かりませんでしたし、どう対話したらいいのかもわからないままであったのは、言うまでもありません。

また、あの時神様の存在をはっきり理解していたら、意見の違う家族との間で私はさらに苦しい思いをしていたかもしれないとも思ったりもします。

母親の入院中にあったもう一つの大きな悩みは、カナダで勤めていた職場を辞めることになったことでした。

母親の入院が長引き、当時勤めていた職場の上司は数ヶ月ほど私の戻りを待っていてくれたのですが、ある時メールが来て、「7月から戻ってこれないなら、これ以上は待てない。」と言われました。

迷いましたが、母が退院するまで側にいようと決めて、退職することにしました。

カナダに戻っても職場を探すところからまた始めなければいけないこと、給料が途絶えた不安がありましたが、この経験がのちに会社奴隷に戻るのではなく、ブログなどの在宅で日本でもカナダでもできる仕事探しのきっかけとなりました。

これなら隙間時間を使って、在宅でお小遣い稼ぎができるかも?そんな気持ちで始め、いくつかの有料記事を購入したりして、ブログ作りをして見たものの、そう簡単にはお小遣いを稼ぐことはできませんでした。

Raptさんのある日の御言葉で、「世の中そうそう簡単に稼げる方法などない。」と聞いてからは、それまで変にしがみついていたお金を稼ぐことが成功のような考え方を、綺麗に払拭することができました。

神様から答えを得て救われたと感じた瞬間の一つ、お金持ちになったわけじゃないのに、すごく気持ちが満たされて楽になりました。

こうして、御言葉に従っていけば、艱難に見舞われても、「悟り」を得られることで迷うことなく、人生を有意義に生き抜けると確信しました。

悟りを得るタイミングも神様は見計らってくださっていると感じています。

母親を亡くしたことへの気持ちの整理には時間がかかりましたが、その間も、何度も「知らぬが仏」なのだろうか、「物事起こるべくして起きる」とはどう言うことなのか、真理を求め続けました。

そうしてRaptブログと言う、世の中の隠されてきた秘密を見事に解き明かす「神業」の学問に出会うことができました。

有料記事で御言葉を聞くうちに、現在起きていることだけではなく、過去に起きたことからも、「悟る」と言うことの意味を知ることができ、「物事は起こるべくして起きる」と言うことがわかるようなりました。

「真実とはこういうことだったのだ」と、衝撃を受けるとともに、深く感動しました。

この御言葉に従順に義を行なっていけば、正しい生き方ができると確信するとともに、物事を善と悪に区別することができるようになることを、Raptさんが明かして下さっています。

これが人生を生き抜く方法なんだと迷わず前進して行くことができると、今まで得たことのないエネルギーを感じています。

最近では、私の物事に対する発想や発言が変わって来ているようで、今までは、ああでもない、こうでもないと陰謀論系の話を挑戦的に持ちかけて来た友人が、言い返してこなくなりました。

さらに、私には直接言わないものの、この彼と共通の友人と会う機会があった時に、「あのなんかすごい感じの人は最近なんて言ってるの?」と聞かれたりもしました。

挑戦的な友人がどうも共通の友人に Raptブログの話をしているようです。

今まで目にしたり、耳にしたり、親や学校の先生に言われてきたりしてきたことの中に、一切含まれていなかった、本当の世の中の仕組みに、その中で生き抜く方法。

それを知らずに80年も100年もの長い人生を楽しく生きたいと考えるから、それはそれは惑わされたり、騙されたりの連続でも仕方がなかったと言えるでしょう。

世間の父親が子供に言うように「私の家で生活する間は、私の規則に従え」ではありませんが、神様に与えてもらった人生を、神様に従わずして生きたとして報われるどころか、生き方がわからなくて当然です。

そうやって迷っているすきにサタンがやってくる。そのサタンによって支配され続けてきた。

Rapt様の御言葉を通じて、自分がこれから残りの半生をどう過ごしていくべきかを日々悟り、たくさんの悟りを得られるようにするためにも聖書を読んで行きます。

私はカナダに住んでいるので、いづれはRapt様の御言葉から悟ったことを、迷える人々に英語で伝えていけるようにして行きたい、それが私の夢であり希望です。

生き方に迷う、真実を求める多くの人にRaptブログの有料記事を読んでもらえますように。

最後に、Kawataさんのブログを参考に、Raptブログ「誰でも世界を変えられる」のYoutubeビデオのリンクを貼らせていただきます。

あなたも、私も、誰でも世界を変えられる。

壮大な話のように思えますが、世の中の秘密を暴いて恐怖を煽るような他の陰謀論者と違って、Rapt様はこの混沌とした世の中をどう生きるべきか、その方法を具体的に示して下さっています。

こんな最強な御言葉は他にあり得ません。なぜなら神様からの愛の啓示だからです。

一人でも多くの世界中の人にRaptブログが広がり、一人でも多くの人が救われて有意義な人生を過ごされることを切に願います。